かわいいは魔法

主にNEWSとBOYFRIEND とにかくアイドルが好き

森発言と、アベプラでの兼近コメントと、個人のマイノリティ意識など、まとまらない話

 

 気が狂いそうなんだよなずっと。この件について考えてて、吐き気がするししんどい。私の心持ちの問題で。それなのに考えずにいられない。先に断っておくけれど、お気持ち表明でしかないし、それなのにお気持ち表明しないと気が済まなくなっているのがつらい。話し言葉風だし、社会的な内容と超個人的な話とオタク的すぎる感情が一緒くたになっているけど、そういうものは全て繋がっているということで。まとまっていない散文です。 

 

  • アベプラでの兼近さんの発言について

 兼近さんは、おいしいもの食べてあったかいお布団で寝ててくれ。こういうときそんなことしか言えない。一連の発言には賛同できないけど、でも私は好きな人なので擁護したくなってしまう。だって2人とも、早朝からロケだの生放送だのやって、疲れ切って報道番組に出てるんだからそれは、仕方ないと思う部分もある。でも、仕事なんだから自分でできる範囲でリサーチしてから話してくれと思う部分もあるし、難しい。やっぱりジェンダー問題について発言するとこうやって叩かれてしまうから、なんか私ももっと勉強するから最低限これを読んだほうがいいとかこの授業受けたほうがいいとかあったらいいのになって思ったけど、でも勉強してないと発言してはならないっていうのも違うし。好きな人には常に正しくあって欲しいっていうのはエゴで、だって誰だって、私も含めて、常に正しくなんてあれない。兼近さんが日常的に意識を向けているのが、自分が日々受けているバッシングのように、切り取りだけ見て、放送とか全文を見ないで、叩きたいから叩く人だっていうことを知っているし、だから斬りこむことを期待されてるときにその角度になるのはわかるっていうのは私が彼のことをある程度知りたいと思って日々見て聞いて知っているからで。

 これ以上首突っ込むんだったらもうちょっと勉強してくれって思ってしまうことが、そういう自分が悲しいんだよ。

 やれ第七世代の価値観だ、兼近は世相を斬ってくれる、って勝手に期待して散々持ち上げておいて、今回の発言ひとつで一発アウトにしかけてる人たち見ると正直悲しい。悔しい。本人がジェンダーについて勉強しました、フェミニストですって発信してるならまだしも、そうではなくて、一緒に勉強していきましょうって立場で発信してる人がいつだって自分たちと同じ「望ましい」意見であると期待するのは流石にやりすぎじゃないかって思ってしまう。これで一発アウトで急に見下したような態度で兼近大樹のことを見るの、なんでなんだろうって思う。悲しい。

 期待しすぎるのでもなく、はなから見下すのでもなく、個人的なその人への感情とある程度切り離して、発言のひとつひとつを判断していくことができないだろうか。自分の立場から見て、良いこと言ってると思ったら称賛して、賛同できないと思ったら、または批判すべきだと思ったら、人格攻撃にも侮蔑にもならないようにそれを批判する。私はなるべくそうありたい。できているかは自信はないけど。それが冷静でいるってことではないだろうか。

 

  • 森発言について

 年寄りだからって批判しているわけではない。今回の事だって老害だって叩くのはもちろん違うし、そもそもその言葉をもう使ってはならない。いや公の場で、または批判する場で、使うべきではないということだと思う。私たちはこれまで内輪ノリで使ってきたかもしれないが、これから老害という言葉を公の場で使うことは望ましくないだろう。もちろんエイジズムもレイシズムもセクシズムも良くない。じじいだから叩いていると言うことではなくて、彼の発言について、その蔑視が制限を示唆し明確な差別につながると言うことに対して批判をしているのだ。正直私は辞任を求めていたと言うわけではなくて、それを許してしまう構造、組織に問題があると思ったので、解任すべきだったと思っていた。こうなってもなお本人の意思でもって進退が決められると言うことこそが組織の問題ではないかと思う。

 そう、なんていうか、女性蔑視発言については批判しないといけない。少なくとも、それは公の場では発言してはならないことですよというのを、伝えたくて。オリンピックという国際イベント、世界的なイベントを取り仕切るトップの発言は、それこそ国としてのメッセージ性を持ちかねないので。でも分かって言っているんだよなあ。それが余計に問題。一番初めの問題発言をした時の全文を読むと、「言うべきではない」「テレビがあるからやりにくい」「また悪口を言ったと書かれる」と言っていて、これが言うべきではないこと、と認識しながらあえて言っているんだよな……。これがむしろしんどい。わかっていて、あえて言っている。発言することで女性の登用を制限したい、発言を制限したいという意志があるわけで。

 一方で、それを批判するときに、その発言をした個人を全否定したいわけではない。辞めろとか死ねとか老害とか、そうやって口汚く罵る人たちのこともまた批判しないといけないと思うんだよ私は。辞めろというか、辞めたからって問題が解決するわけではないので、私はこれが問題の改善とか、問題について考える契機になればいいなと思ったわけで。それは公の場で発言しないほうが良いですよって止められる人がいない組織の風通しの悪さ。その発言の場で仕方なくなのか、同意なのかわからないが、愛想笑いが起きるという組織の問題。もしくは、そういった発言をしてしまう人をトップに据えたままにしてしまう組織の問題。だから、その点では問題に目を向けないで声高に「やめろ」と叫ぶのは趣旨からずれていると思って、あくまで女性蔑視発言が問題で、それを批判するのが目的であると。辞任するしないというのは、目的でなくて手段でしかないということ。それは意識したい。

 川淵さんの発言もそうだし、森さんのことを「かわいそうに」「気の毒」扱いするの、本当に問題を、批判を理解してないんだなと思って悲しくなる。権力のある差別した当事者が、まるで被害者のように振る舞うこと。それで批判の声は功績のある老人いじめだとか言われる流れ。もううんざりだ。「つらかったろうな」って、あなたを批判している声は、あなたこそが踏みつぶした人々なんだよ。功績があることはもちろん一定の評価があるし、それ自体を、また個人を否定しているわけではない。ただ功績があれば誰かを踏みにじっていいわけでも、差別をしていいわけでもない。

 

  • 私個人のマイノリティ意識からくる感情

 私が感じているモヤモヤの背景にのひとつに、私がマイノリティを自認しているということがあって。私は肉体的には女性だ。女性として振る舞って生きているから社会的には女性として扱われるし、そこに異論はないし抗おうという気もない。ただ、性自認ということでいうと、ジェンダーフルイドというカテゴライズだと自認している。ジェンダーフルイドというのは、性自認が一定ではなく、液体のように流動的に変わる、と認識している、みたいな。気分によって男性の意識が強い時もあるし、女性の意識が強い時もあるし、中性的な意識が強い時もあるし、みたいな感じ。とにかく、LGBTの4種類にも入れないと感じているような、とってもマイノリティだという自認があります、ということだけ受け取ってもらえれば良い。

 女性差別の問題に対して怒りを感じている時、自分の立場を女性に置いてるんだなとふと思う。これは何に怒っているのかって、実際人口の半分を占めている女性がこれほどに軽視され、差別を受けている時、もちろん男女の断絶があって、男女の分断があって、対立があるわけだ。でもこの時点で足踏みしている限り、じゃあもっと人数が少ないマイノリティは軽視され続けるし差別され続けると言うことが自明だからだと思う。女性は制限されろ、黙っているべきだと差別されるなら、じゃあマイノリティは消えればいいのか?死ねばいいのか?発言権がないのか?と感じてしまう。人口の半分をも占める女性が対等な権利を得てようやく、マイノリティの人権を考えようという段階になるわけで、それが途方もなく遠いから、悲しくなるし怒るんだと思う。女性差別が明らかになるたびに、男女の分断が深まるたびに、その点について腰を据えて考えるたびに、その瞬間瞬間でマイノリティが抹消されていると実感する。まずこれを早く終わらせないと次にいけない。多分今世じゃ無理だけども(諦め)。根深いよなぁ……まだここにいるのかって言う絶望を何回も繰り返すわけで。マイノリティの人権侵害を主張するためには、その前段階で女性の人権侵害の問題を解決しないといけない、と感じてしまうのだ。ここにわだかまりが生じることを許してほしい。それだけ。

 男性側はいつだって加害者側だって認識すべきだ、またはそう認識して、その加害性に常に配慮しながら物を言わないといけないような風潮もなんかしんどいなと思ってしまうけどこれは仕方ないのかな……。私がこう思うのは、自らの性自認により、男性側にも共感してしまう部分もあるし、でも発言するときには肉体的・社会的に女性であるという盾に隠れられて、しかも男性でも女性でもないマイノリティであるという意識で宙に浮いて、部外者のような意識に逃げることもできるからだろうか。それがどこか後ろめたいからだろうか。

 

 

 まるでまとまらなかった。この場でここまで言わなくてもいいとも思ったけど、これらの思考が全部ワンセットだったからお目汚し失礼させていただく。しんどいけどこうやって考え続けることに何か意味があると思いたい。